top of page
History
武道鈴木創業に至るまでには、どのような道のりがあったのでしょうか?
淳史さん
大学二年の頃、兄が営んでいた「山中武道具」でアルバイトししてね。熊本にある大手防具店「オガタ武道具」に修理を学びに行ったりした。午前中は店番や防具修理などやって、午後は剣道の稽古して。学部の授業が夕方からだったから16時から授業に出て。その生活を二年半ほどやったね。今思うと体力あったよね。

左から中原幸次さん(早稲田大学剣道部同期) / 母 綾子さん / 林達雄さん(大分県 剣道連盟副会長)/ 兄 秀夫さん / 淳史さん / 中原さんの母
大学卒業して就職したんだけど、兄から「山中武道具」を手伝ってほしい。と言われてね。兄のもとで 新宿店の責任者として二十六歳まで勤めた。その頃には、ある程度のノウハウもあったから独立することにしたんだよ。
当時、結婚したばかりで妻(博子さん)の実家の物置小屋に竹刀や防具をおかしてもらってスタートした。一年間ほどお客さんはこなかったね。全然来なかった。店って呼べる代物じゃなかったからね。ずっと収入もゼロだった。
収入がまったくないというのは、非常に厳しい状況だったのではないでしょうか?
淳史さん
いや〜辛かったよ。妻の実家というのもあるし。けどね、博子が常に明るくて。あの明るさに本当に助けられた。落ち込んでても不思議と気力が湧いてくるんだよね。

結婚当初の淳史さん / 博子さん
収入ゼロの状態から、事業として成立するようになった転機はどこにあったのでしょうか?
淳史さん
兄の親友に「三島美佐夫さん」という方がいて。九州学院高等学校二年時にインターハイで優勝し、優秀選手賞も受賞。「真空斬りの三島」と呼ばれ、当時トップクラスの評価を受けていた。武道鈴木の稼ぎがなくて悩んでた頃、何度も相談に乗っていただいたよ。武道鈴木の基盤を作れたのは、三島さんの助言があったからと言っても過言ではない。三島さんは拓大卒業後、港湾労働で開業資金を貯め、熊本の山中家近くに三坪の花屋を開業。そこから仕事一筋でどんどん事業を拡大し、今や東証スタンダード市場上場の「ビューティカダンホールディングス」の会長として経営に携わられている。 すごい方にアドバイスを頂いてたよ。
あとは、韓国に工場を作ったこと。直接防具を作ることで、良質なものを問屋を通さず手頃な価格で販売できるようになった。今でこそ問屋を通さない小売店が主流だけど、当時の剣道部具界では初めてぐらいだったから反発も多かったよ。
そこから少しず売上も伸びてきて。店も物置小屋を義父(博子さんの父・正和さん)が店舗型に改造してくれてね。大学時代の繋がりで雑誌「剣道日本」に広告を出した。今みたいに情報が多くなくて雑誌は唯一の情報源みたいなところもあったから。
広告を出してから反応がすごい。店の前に50人ぐらい行列ができてね。それも毎日。売上もどんどん右肩上がりで。対応できないくらい注文がきた。

三島美佐夫さん(九州学院 / 拓殖大学剣道部 主将)
たったひとつの広告で...それは本当にすごいことですね。
淳史さん
本当にすごかったよ。博子の姉、康子さんも店を手伝ってくれてたんだけど、あまりにも忙しい毎日が続くから、ある日言われてね。「お金はいらないから休みをください」って。今になっては笑い話だけど、当時は本当に大変だった。
その間にも、支店や工場を視察したり、営業に行ったり。とにかく働いた。
忙しかったけど、色々な人たちと知り合うことができた。三田剣友のOB会に商用で呼ばれた時に元総理大臣の「橋本龍太郎」さんが稽古されてて。橋本さんは兄の秀夫と親交があってね。橋本さんはとにかく可愛がってくれたよ。

橋本龍太郎さん / 淳史さん
ベルリンで道場「Kokugikan」を運営している青木光義さんともこの頃知り合ったね。慶應大学名誉教授の植田史生先生に帯同してドイツに剣道指導に行った際に意気投合してね。青木さんのお子さん達も家に泊まりに来たし、うちの娘たちもドイツにお邪魔したり。今でも交流が続いてるね。

淳史さん / 青木光義さん
bottom of page