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剣道試合
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History

ここまで生きてきた。

剣道と縁によって

そう語るのは「武道鈴木」創業者の
鈴木淳史(旧姓:山中淳史)さん。

今回ホームページ制作にあたり、
様々な関係者に取材を重ねた。
その中で、ひときわ強く惹かれたのが、
​淳史さんの存在だった。

一体どのような想いで武道鈴木を立ち上げたのか。
その原点を辿るために、淳史さんの剣道人生を
​ここに記したいと思う。

剣道との出会いは、いつ頃だったのでしょうか?

淳史さん

幼稚園の頃だね。父の幸男が熊本済々黌剣道部から大日本武徳会武道専門学校(京都武専)に進学してずっと剣道をやっていた。兄の秀夫も剣道をやっていて。その流れから物心ついた時から竹刀を振っていたよ。

秀夫、淳史、江美子

​兄 秀夫さん / 淳史さん / 姉 江美子さん

秀夫と淳史

兄 秀夫さん / 淳史さん

父 幸男さんは熊本でも名の知られた人物だったと伺いました。

淳史さん

親父は年がら年中、勝海舟愛用の袴を履いて高下駄で過ごしていた。絵や生花も嗜んでたね。俳句もやっていた。「山中野太刀」という俳号で俳句会を主催したり。俳人の種田山頭火に傾倒し、編笠を被って街を行脚したりしてたね。

喧嘩番長としても有名で、「最後の豪傑」と熊本済々黌で言われてたと聞いている。十代の頃「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた柔道の木村政彦と果し合いをして、立会人の計らいで引き分けになってね。「木村は強かった」と子供の頃よく聞かされたよ。

父・幸男

父 幸男さん

幸男自画像

​幸男さんが描かれた自画像​

剣道への情熱も人一倍あったね。青空道場で少年たちへ指導したり、豚汁会を開催して少年剣士たちに振る舞ったり。青空道場には教士八段の「外山卓治さん」や、豚汁会には後の熊本済々黌剣道部主将を務められる「加来三津夫さん」も来られてた。

親父は熊本市議会議員でね。剣道範士十段の「大麻勇次先生」と共に全日本剣道道場連盟設立に奔走したと言っていた。親父の葬儀の際、先生は佐賀から一番に駆けつけてくださってね。棺の前で涙しておられた姿に、二人の深い気脈の繋がりを感じたよ。

俳句

幸男さん作の俳句

大麻先生と父

​大麻勇次 先生 / 幸男さん

母 綾子さんはどんな方だったのでしょうか?

淳史さん

お袋は厳しかった。とくに勉強について。小学生の頃、お袋と口論になって勢いで家出をしたことがある。とはいえ、行く当てもない。ただ近所をうろうろ歩き回っていた。いつのまにかあたりは暗くなってね、腹も減ってきて。情けないけど家に戻ることにしたんだよ。叩かれる覚悟で玄関の戸を開けると、廊下の奥からお袋が走ってきた。そして、何も言わずに抱きしめてきてね。その瞬間、目から涙が突き上げてきた。ぼろぼろと二人で泣いたことを覚えてるよ。

この時、何ものにも変えられない「愛情」というものを深く実感した。

母

​綾子さんの家族も剣道一家だった
左端 綾子さんの実兄 坂口哲夫さん(八代高校、同志社大学 剣道部)/ 右端 
綾子さん

母の兄「哲夫」と親父が無二の親友でね。出征する前、哲夫叔父が親父に託したんだ。「お前が生きて日本に帰ることがあったら、俺の妹をもらい受けて欲しい」と。その後、哲夫叔父は戦死してしまった。親父は親友との約束を守り、八代にあるお袋の実家にもらい受けに行ったんだ。

親父は知人の連帯保証人になって、借金を負わされてね。生活が苦しくて大変だった。親父は54歳で亡くなったんだけど、最後の言葉は今でも覚えてるよ。病院から危篤だと知らせがあって、病室には親戚や知人が次々と駆けつけ、みんな静かに親父を見守っていた。親父はお袋を枕元に呼び、最後の気力を振り絞って言うんだよ。

「貧乏、、、貧乏くじば引かせたね」って。お袋は泣き崩れた。抑えきれない泣き声が、病室に響き渡っていた。

幸男さんと綾子さん

​綾子さんと幸男さん

裕福ではなかったけど、誇りだけは持っていたね。お袋は親父が亡くなったあとにこう言ってた。

「こんなボロ屋に住んでいるけど、お父さんが剣道に携わったことで、昭和天皇の侍従で護衛に生涯をかけらた坂口鎮雄先輩に仲人をしていただいた。誇りだけは持っとるばい。剣道を通じて多くの人脈を築くことができた。剣道に深く感謝しておるばい。」って。

誇りと剣道の「山中家」だったね。

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